感謝されないことに傷ついてしまうあなたへ

ありがとうが欲しかった私へ
ありがとうが欲しかった、それだけだったのに
最近、AIを使ってレポートを作った。
過去のデータを整理して、今までになかった視点でまとめたつもりだった。
自分なりに工夫して、きっと役に立つだろうと信じていた。
でも、それに対して返ってきたのは——
一部の人たちからの、まるで空気のような無反応だった。
「役に立ったよ」のひと言がほしかったわけじゃない。
だけど、まったく反応がないのは、やっぱり少しこたえる。
何か間違っていたのかな、とか。
あの時間は、意味がなかったのかな、とか。
そんな考えが、ふと胸の奥から顔を出す。
たぶん私は、「ありがとう」が欲しかったんだと思う。
ただ、それだけだったのに。
感謝されたい気持ちは、悪いことじゃない
「ありがとう」って、不思議な言葉だなと思う。
短くて、軽やかで、誰でも使えるはずなのに、それがあるかないかで、心の中の風景がずいぶん変わる。
きっと私は、「あなたのやり方でよかったよ」とか、「ちゃんと届いたよ」というメッセージを、ありがとうの中に感じていたんだと思う。
それがあることで、少し自分に価値が生まれたような、そんな気がする。
逆に、ありがとうがないと、何か自分が間違っていたような、価値がなかったような気がしてくる。
それがしんどさにつながるのかもしれない。
でも、感謝されたいと思うことは、決して悪いことじゃない。
それはきっと、「誰かの役に立ちたい」と願う気持ちの、裏返しでもある。
誰かにとって必要な存在でありたい。
その優しさが、時に「ありがとう」にすがってしまう理由なのだと思う。
反応を期待しすぎると、心がすり減る
もちろん、「ありがとう」と言ってもらえるかどうかは、自分にはどうにもできない。
みんな忙しいし、言葉にしない人もいる。
だから、そこに期待しすぎると、どんどん自分がすり減ってしまう。
わかっているのに、私はその一言を待ってしまう。
「伝わったかな」「ちゃんと見てくれたかな」と、相手の表情や言葉を探してしまう。
そして、何も返ってこなかったとき、心の中にすうっと冷たい風が吹き抜けるような気がする。
どうしてこんなに一喜一憂してしまうんだろう。
そんな自分を情けなく思うこともある。
けれど、これはたぶん、心が“誰かとちゃんと繋がっていたい”と願っている証でもある。
反応に期待しすぎず、それでも気持ちを込められる自分でありたい。
そう願う日々が、今の私なのだと思う。
私が“ありがとう”に込めていた意味
あのときも、私はデータを分析していた。
言われたからやるのではなく、自分から「これが役に立つかもしれない」と思って動いた。
すると、こんなふうに言われた。
「君がいて本当によかったよ」
それは、レポートの出来に対してだけじゃなく、私という人間そのものに向けられた言葉だった。
私はプロジェクトの裏方として動くことが多い。
表に出ることは少ないし、誰かに褒められることも多くはない。
だからこそ、「自分がいる意味ってなんだろう」と、ふと自問自答してしまう。
でもあの「ありがとう」には、私の“存在の肯定”が込められていた。
結果や成果じゃなく、そこにいたこと自体に価値があると伝えてくれたあの言葉が、今も私の支えになっている。
ありがとうがもらえなかった日にも、自分をねぎらう
「ありがとう」がもらえなかった日。
なんでもなかったふりをしながら、少しだけ胸が重たくなる。
でも今なら、あのときの自分にこう声をかけてあげたい。
ちゃんと見ているよ。
ちゃんと感謝している。
あなたはもう、組織の大切な一員として、しっかりとそこにいたよ。
たとえ声に出してもらえなくても。
たとえ拍手が聞こえなくても。
あなたの存在は、ちゃんと意味があった。
だから今日も、ひとつ深呼吸して、自分にそっと言ってあげよう。
「ありがとう。よくがんばったね」って。